あんまりアジリタが転がらなくてしょうもないので、マミーシンガーズの友達来てもらって聞いたら、すぐによくわかった。がそれが定着するまでには1年くらいかかるだろうけど、うたは「正しい努力」をするのが大変難しいジャンルだと思う。いろんな先生についてきた私だが、うたのうまくなるコツは一つしかなく、「昨日の自分を捨てられるか」である。今までやってたやり方に固執しないことです。
出てる音にしか結果がないので、たくさん勉強した、というようなことがあまり意味を持たない。出来ちゃえばいい、という身もふたもない側面が大きいことはピアノ以上だが、でも思えば「できる人」は初めからある程度「できる」ということに関して何もかもそうではありませんか!
勉強できる子どもはピアノもうまいことが多いし、家もいいことが多いし、資産のある所には美人が嫁ぐ確率が高いから顔も良かったりするんですよ。で、仕事も順調、ちょっとうたなんぞ習いに行ってみたら、結構うまかったり、ピアノ弾けるもんだから音感あるし、さらうのも楽。
生まれる家(は象徴的に言っているわけだけど、時間、場所、関係性)を選べない限り「平等」などというものはあり得ないからこそ、表面くらいは平等にしてもらわないとかなわないが、年号が変わったくらいで有難がって「楽しく」できる人をテレビで見てると、そうか、いろいろ備わってない「不運」を嘆くより、なんでもおいしくいただける幸せというものもありだな。上をみないこと、高望みをしないこと、フェイスブックで自分の食べたもの自慢しあってたらそのうち人生は終わるし、ごたごためんどくさい事考えないで、「素直にして」人様から「勇気をいただいたり」してれば「ほっこり」幸せだもんな(こんな「」ばっかの文章とか意味わかんない)
それでも幸せにはかないません 糸井重里
アジリタが転がらないくらいで不幸になっているのはもっともうたに向いてない態度だ。大体私は出来ないことを言い立てて騒ぐタイプだが、その割には解決しようとしていないので、出来ないことを言い立てるのが好きなんだと思う。
そのマミーの友達とその後家で飲んで、うちでやってるイタリアマスタークラスに行こうよ、せっかくうまいんだから、と誘うと、
うーん、それ2日くらいでいいからさ、その後一緒に遊ぼうよ!!というんですよ。いや、われわれはベネチアマルコポーロ空港を使って行くのだが、決してベネチアで遊んで帰ろうともしないストイックな者たちなのである。イタリアで勉強したことを家で復習したいから、一刻も早く帰りたいのである。
そんなのもったいないよ!!ローマとかもいこうよ!!
彼女は翌日家族と旅行で香港に行ってしまったが(翌日早いから少なくとも7時半にはここを出るはずだったのが結局9時を過ぎてしまった)で私はこの10連休もレッスンをしてその合間にせこせこアジリタの練習をしているんである。アジリタの位置はほぼ「笑い飛ばすところ」であるが、10連休で帰ってきている息子が「好きな言葉は レットイットビー でしょうか」という小室さんの真似がうますぎて笑える、といったひねくれた笑いではなくてさ。初田舎、初会社、初一人暮らしでちょっと心配してたんだけど、持ち前のいい加減さを発揮してなんとかやっているようで心底ほっとした。やつが高校の頃は、追求心が希薄だ!と怒ったこともあったが、こういう場面ではそこが発動されているようでまあ人は自分の持ち物で生きていくんだね。7月に父兄参観があるんですよ、会社にですよ。もちろん旗持って駆けつけるが、やさしい時代になったんですか。ニコチンをコーヒーで流し込み、部下を怒鳴りつけお茶くみ女子社員にセクハラ発言するやり手課長とか昭和の産物ですね。
「昭和」は遠くなりにけり
私たちの時代の天皇誕生なんだな、としみじみ思った。何がってまさこさんときこさん、とは私たちの時代の女の生き方の双極である。
といってもまさこさんは少なかったし、特に私のような底辺女子高などは全員きこさんを目指していたものです。一生働く、ということは私たち階層では「キャリアを生かす」という意味ではなく、「良い旦那さん」を捕まえ損ねた女のしぶしぶ労働に過ぎず、それは今でもそうかもしれないが。底辺女子高などは「依存の仕方」を習う場で、女子にとって頭が悪いなんてことは何の欠点でもなく、旦那さんの話をうんうん、と尊敬して聞けていいし、私たちの最高の価値は「ドジで間抜け」な堀ちえみであった(もちろん彼女の作られたイメージだが)
でも今世間は「人民は平等に働き平等に家事をして」、みたいな言葉に括ってみようとしているので、それはまず「言葉」ありきだから、だんだんそのような方向に行くだろう。ドジで間抜けな女房を食わせていける旦那が減ったのかもしれないし、国も一億総税金を払ってもらいたいんだろうよ。イデオロギーなんか経済で決まるんだとマルクスが言ってる通りで恐縮だが。
私たち世代のきこさんを選んだ女子のむしろ「成功」したものの「溜め息」のようなものを多く聞く立場の私は、ほんとはまさこさんだったのかもしれないのにきこさんにさせられた、と本人が考えているような場合「嘆息」は深いよね。もっと違う人生があったんじゃないかしら?もっと私には能力があったはずなのに、いやいや、大丈夫だったんですよ。ほんとに能力があってそうであったならとっくに「病気」になってたでしょう。雅子様のように。
まさこさんになり得た人々もそろそろ定年。駆け抜けたフロンティアたちもおうちに帰る時間がやってきた。
「自分の住むところには 自分で表札を出すが良い」石垣りん
ネット会社のアドバイスに添って、むりむりうたの話につなげる。
自分であるためには 自分のうたがあれば良い