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声楽をやる理由

 イタリア語を最近は月2回になってしまったが、三人でスカイプでやっているのだが、案の定落ちこぼれた。最初は多分私が一番できたと思うが(2年前)今は昔である。東大・東工大卒と三人でやってるが、学習に対するモチベーションが全然違う。これは私もこの歳になって学ぶところが多いのだが、この二人は学びに対する劣等感というかめんどくせえ気持ちというのかそういうものが無い。なんでも好奇心で取り組んでいく、これがまず全然違う。 

 こんなふうに言ってみよう、というのと、こう言ったら合ってるかな?ではまるで違うということなんですね。「やってみよう心」が強いよね。私はやってみるのは毎度めんどくさいのだが、「やってしまって」ものを進めてきたが、そしてそれはだいたい成功もしているのだと思うが、

だからどこか忙ししくても「退屈」というか。

「暇と退屈の倫理学」國分功一郎 新潮文庫

 人間は「退屈」だ。暇だと過去のいろいろ忌まわしい記憶も思い出されるし、これから先のことも不安になるから、いろんな刺激を求めて「やらかしてしまう」わけだが、それならそれで、まあマシな趣味なりを追求して暇を潰そう、それくらいしか方策はない。

 國分先生、こんなまとめでよろしかったでしょうか?

 そう、「声楽」を学ぶなどということは暇つぶしに過ぎないわけだが、それなんの役に立つの?という根本的な問いには、退屈の役に立つ、としかいえない堂々巡りではある。人間、退屈するというプログラムが組み込まれている以上何かやるしかない。

じゃ仕事、それも何か金銭以上の「有益」を含むような「仕事」は暇つぶしには大義名分もあって一番いいような言われ方だが、それより「趣味」を追求するような「暇つぶし」の方がよほど良い、というんですね。一瞬そうかな?と思うが、確かに生徒さん見てると幸せそうではないか。それも家族とか仕事とか「本丸」の部分ではなく「うた」が楽しそうだ。

 余談だが、陶芸のような「作品」が残る趣味より絶対いいです。あれはあげても喜ばれないし、貰っても困惑、捨てるっていうと破滅的。どんな下手なうたでもやり逃げで何も残らない。ただ、上手く行った時は他の人はともかく、自分の感覚には少しの間残る。そのくらいの「効用」ではあるが。

 そこでしか生きてく「理由」などないし、いや、違うな、生きてく「理由」がいるような生き方は危険だ、と言っているんだろう。

 今はコロナで「有事」だそうだから、でもこういうものもいつかは終わるので、これを「理由」にしないことが大事かね。

 

 

 

 

 

 

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