思えばこの声楽教室に通って「人生変わっちゃった」人は多くいるんだろうと思われる。
体とか丹田とか気とかチャクラとかを相手にするので、極めて掴みにくい。
ちょっと間違えると宗教のようになってしまうし、私はどうも自分の言動が人を変える力を持っていると知っているので、「注意深く」レッスンをしていると思う。それにただのうたを教えているんだということをいつも戒めていないといけない。うたはまだほんと発展途上な私なので、常にペーペーな練習を重ねているが、一進一退、頂上などいけるともこの頃は思っていないが、昨日よりは一ミリでも良いならよしとしよう。
麻原美代子と言われて久しいが、その人も初めは整体の先生に過ぎなかったのではなかったか。この事件について、あまりに奇異だったため人はもう特殊な話として忘れようとしているように思うが、そして色々な「宗教」に関して統一教会以来、ほら少しそこ、やりすぎじゃないの?という方向であり、客観的に見ればこれらの表だった既存の宗教はいかにも特殊でお笑いの対象になってしまっているが、
ではあなたの「神」は大丈夫なのか?
「その神を撃て」太宰
こんな事書くとは思っていなく、3丁目のスタバにいるが、そう、歯が痛いのである。今週土曜のコンサートの後に歯医者(生徒がやってる)に行くのだが、いよいよ痛いのでロキソニンが手放せないが、昨日マツキヨに行ったら薬剤師がいないというカドで売ってもらえず、まあ人は歯痛くらいでも気が弱くなりますよ。これは名医な生徒に治してもらえるとわかっているのでいいのだが、これが得体の知れない病気で、ロキソニンも効かなかったらどうであろう。
人は弱いものです。宗教がロキソニンになるなら良いではないか、と思うが、まだ表だった宗教で(それがどんなに他から見たらアホくさくても)奇抜な儀式を行おうが、エルカンターレを叫ぼうが、人の勝手だが、なんとなく頭の中に巣食うタイプの「宗教」にSNSの言説というものがあると思う。これは結構信じてる人は多いのではないか?荒唐無稽なものから真実らしいものまで色々あるからね。
頭を乗っ取られる、という状況を「宗教」と私は思っているが、そうならないためには小さい頃からの膨大な読書や多角的な議論、だが、人の読む本は必ず偏っているし、議論する仲間は大体同じ穴の狢だ。
昔(ほんとに大昔になってしまった。45年もむかし)大学のサークルで夜な夜な「議論」を重ねてきたが、その手の暗いサークルに集まる暗い人々で、みんな己のルサンチマンを抱えどうもまだ20歳そこそこだが、家は大した事ないし、受験は失敗してるし、どのみち先行きたいしたことにならないだろうという私たちの「議論」だからね。
突然「愛」を叫んでしまったり、「革命」を夢見たり。毎日集まる飯田橋駅前酒場「やなぎ」でしけたかっぱえびせんと茹ですぎの枝豆(茹ですぎで薄皮が剥けちゃうってあるが、表のハードな皮までズルズルなのである)をつまみに、なけなしの脳みそで「真実」を探そうとはしていたが、マシだったのは、決して与えられた「神」には懐疑的であったことだ。
とりあえず考えようとはしてたと思う。その態度は今の今まで続いていると私は思っているのだが。うたにしてもだ。
「うた」の真実を突き止めることは私にとってうっすら「本当なこと」に思われるが、これがそう簡単でもなければ「真実」を容易に与えてはくれないのである。絶対これでわかった!と思って一晩寝たらわからなくなったりするような。才能のせいにしがちだが、こういう深い分野はどんな才能のない民にも日々の糧を与えるものである。
いいよ、教義も儀式もお布施もないから。こういうなんの決まりもアルゴリズムもないものこそ「宗教」にするといいと思う。なんのロキソニンにもならないけど。