なんか自分のサイトなのに、「発表会のドレス選びも楽しみの一つ」とかいうコラムが出ていてびっくりしてるが、このサイトを運営?している会社が、善意で(別にタダでやってもらってるわけではないが)いろいろ載せてくれてるわけだが、ドレス選びが楽しかろうが苦痛だろうが、どうでもいいが。
そういう「普通の感覚」で声楽を始めると多分あんまり上手くならないというような感想はある。こういう変なブログを面白がってくれるくらいが入り口としてはいいのではないか。
とにかくイタリアに行こう!これに尽きるかな。今回のイタリアツアーから日曜に戻ったが、また「本当の音」を聞いてきて、これを忘れないようにしなくてはいけないが、帰りの飛行機はドバイまで6時間、トランジットで4時間、ドバイ成田で10時間、とっくにレッスン時間を超えてるので、2日くらいはぼーっとしていたが、いや、帰ってきて大量なレッスンをしているうちに、メラメラとイタリアが蘇ってきたのである。
本当の音は素晴らしい。やってきたことを書くと、後ろ開けて息をちゃんと吸って腹からうたうで全部だが、だからこそ行かないとわかんないのである。実際聞いてみないと。
来年からバルバラ・コスタ先生に変わるが、今回1回レッスン受けてみてよ、というので受けてみたが、もう一回見てほしいと泣いて頼んで2回みていただいたが、ひれ伏すような声。それはルチア先生も同じである、でもスカラで見たネトレプコも同じである。
どうして日本の声楽だけ変なのだろう?
このテーマを死ぬまで追いかけてみようと思う。今更だが、なんで声楽なんかに関わったかといえば、「子育て」が嫌でたまんなかったというのがあり、それが下の子が3か月の時で、その時同級生からコンサートやるからでない?というお誘いを受けて、そういえば大学で声楽なんかやったなあ、と思い出した、というもので、それが二期会に行くきっかけ。でこれを「商売」にしたのは娘が音高を受けたいというので、ししろーの薄給ではとても行かせられなかった、ということで、ここで私は趣味から仕事に声楽を転換させた(思えば全部子どもがらみなのか。子どもとししろーの薄給に感謝でしかないな)
「仕事」と「趣味」の何が違うかというと、逃げ場がないことだろうか。逃げるということはやめると同じで、なんとなく声楽といい関係、などという日和ったことを言っていられなくなった。
であれこれ悩んだ末に私は「イタリア」を発見したんだと思う。
バルバラコスタ先生が、あなたはメゾの曲もやれるのでは、などとおっしゃるので、本当に嬉しかった。日本ではもっと軽く作れだの、言われてきたのだ。ふん。
今何年も留学して帰ってくる人も多いというのに、なんで日本の声楽のコンサートはつまらんのだろう。いいのもあるのかもしれないが、声が貧弱。良いと言われている人の演奏もどうもピンとこないのである。
今日はまたもう一人の宝塚の子のデビューなので宝塚に行ってきたが、毎度二部は感動してしまうなあ。うたは極度の喉声だが、もうここまで喉声だと曲芸の類だが、なんて綺麗な舞台なのだろう。変な声楽の100倍くらいはいい。うちでコールユーブンゲンやら課題曲などをおずおずうたってた子が、2年でどうやってここに立てるまでになるんだろう。
そして音大とは4年もあれこれやって何にもできない人を量産してるがこれはやはり教育がまずいのではないか。
真剣に「商売」にしようと商品化しないからだと言える。もう卒業したら何にもしてない人などザラにいるが、「嫁入り道具」なのか。でもかつての私もそうであったか。くそ、遅れを取り戻す、いや遅れすぎてるのでもうとっくに電車は出てしまったので、ここでうたう。
ここでうたう。
来年は2週間コース、1週間コース。聴講コースを作る予定。みんな来るといいです。せめて聴きにきてほしい。レッスン録画なども作ってもいいが、「録音」じゃだめなのよ。倍音とか響とかその場じゃないと受け取れないいろいろで音楽はできているのだ。
しかし直行便が出てほしいなあ。おいこらプーチン、戦争やめてくれ。宝塚のレビューの真ん中に立たせて(チビなのでなんか台に乗せて)みんなで羽で煽ってあげて勇退してもらおう。ロシア上空が飛べないと直行できない。
長い長い飛行機では映画を見るしかないが、日本の映画6本くらいちょこちょこみたが、わかった、去年私が冒頭でちょこっと出た「私のお母さん」のテイストが多いのね。くらーいわ。あまりに見過ぎて、しばらく日常が映画のようだった。英語がわからないので日本語になってる映画しか見られないのだが、エルビス・プレスリーの映画とホイットニー・ヒューストンの映画は面白かった。後「ブリジット・ジョーンズの日記」って映画が面白かった。こんな日本の少女漫画な作品があるのね。つまりブスでデブでドジの私がいい男2人にモテまくるという話。「ラブストーリーは幸せな結婚で終わらなければならない・・・」というセリフがあったが。
「結婚」は終わりの始まりであった。ホウツキ・ミヨコの日記は終わらないのである。