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なんの役にも立たない音楽、褒められもしない音楽

 この資本主義社会において(いきなりですか)老人というのは戦力外通達を受けたものではあるが、それを悔しがったり、まだまだ戦力だ!と言い張り老害化して居座り、戦力外というか戦力番外編のような特殊な位置に君臨して、その挙句には立像を作ったり(石になってでも残りたいか、、鳩糞をかけられてでもだ)涙ぐましい執着を見せるわけだが、大抵女はそうはならない。なぜかというと初めから「戦力外」だからである。

 それを初めて感じたのは子どもが出来た時だ。

二十八だったと思うが、それまでも会社で働いていたわけではなく、そんな「戦力」だったわけではないが、子供出来た途端、する側ではなく、してもらう側に立った、もうこの子と一緒に「福祉の対象」になったということはすぐにわかった。

 まともな大人としての扱いは受けないのだよね、子供と一緒だと。それはお子さんの世話はあるわけだし、「お母さんの自覚」を持たねば、それは自分が「半分」になったような感じを受け入れることだし、自分の名前がなくなることだし(「名前を無くした女神たち」というドラマがありましたが)

 それが嫌でたまらなかった。私はね。でも全部そこからだった。私って何?という単純で答えのない疑問。そして初めてまともに「社会」と繋がったんだと思う。それは不幸にも「疎外」という感覚としてではあったが、この「違和感」がなければ私はそのままなんとなくゴロゴロしてたんだと思う。

 その外れてしまう哀しさを受け入れられない多くの男はいつまでも何かにしがみついていたりするが(男って、本当可哀想なくらい「ホモソーシャル」から落ちこぼれるの嫌うよね、小学校の時からあんまり変わらないのでは?どんなつまらないことでも勝ちたがる)まあそれができるのは一部だから、大体は65くらいになれば花束と寄せ書きを渡され職場すら去らなければならない。

 その後何かになるのは大変だから大抵はその「疎外感」を受け入れ、しかし家に入ればもうとっくに疎外王として君臨している妻がいたりするわけだ。

 女は本当早いうちから2級市民の感性をもってるからね。老人くらいになれば「なんだ馬鹿野郎」と居座る新井注ぐらいの芸当は身につけているし、すでにもうそんなことはどうとも思ってないから、フン、実を取るわ、うまいランチを2級市民の友達と取るとか、ほっこり旅行に女友達と行くとか(平日の熱海などに行ってみ、女旅行ばかりだよ、お父さんが地位にこだわってるうちにとっくに遊んでるからね、お父さんも「それ」終わったら一緒に遊ぼう、とは思ってないところが長年の蔑みに絶えた者のせめてもの意地悪である)

 今は働いている女の人ばかりになったし、みんな平等思想が席巻しているから、私のような疎外感を持たずに女は生きているんだろう、か?

 にしたって、老人になればもう働かないんだからね、「疎外感」は男のように持たなくてはならないのかもしれない。要するにいつ戦力外通達を受けるかの、時間の問題だったわけだ。

 そして「用のなくなった人」に妙に優しいのがこの世の中で、その態度で私は「戦力外通達を受けた」と気がついたわけです。

 保健所の人に「お母さん」と呼ばれ(あんたのお母さんじゃないが)福祉関係の妙に前の方で喋る保育士、保健士、の皆さんの「アドヴァイス」をいただき、「うーん大丈夫だよー」「みんなそうだよー」みたいな言語なんだが。なんだ、バカにしてんのか!!と怒るわけにもいかないのは、それは「お母さん」らしくないし、彼女らは「子供のプロ」だからね。まともなこと言うと「変わってるねー」と言われるに決まってるので(あるいは「変わってる」と言うところで笑いをとってむしろ人気者になるなどという技も既に私はバカ高校で習得していたが)

 いや、でも子どもはいつまでも子どもではない。3歳まで神話というのは主に日本会議(もう統一教会も入れていいかも)関係の皆様に信じられている信仰だが、お母さんは子どもが3歳までは近くにいてスキンシップをとった方がいいかもしれないが、それよりはるかに長い、それもヒトが人として成立する小学校高学年から成人までの間に「アホな本も読まない言語の弱い母ちゃん」の方がはるかに問題だ。そこであんまり2級市民ぶりが定着してると子供にまでバカにされてしまうのである。

 でもそんなことは全部いつかは終わる話だ。そう、老人・・。

昔は老人化して5年くらいでおさらばできたというのに、昨今下手すると20年強。

 ばかにされたって、相手にされなくたって美味しいもの食べてればいいもんねーな居座りはできる人にしか出来ない。なんでも「成長」なんでも「発展」を求められるロジックの中でずっとそういうプログラミングで生きてきたのである。

「老後とピアノ」稲垣えみ子 ポプラ社

ピアノは腱鞘炎スレスレまで練習しなきゃ面白くならないが、そうか、会社でバリバリ働いてきたことをピアノ等の練習に向ければそうなる。

 本にもそう書いてあるが、そんなに練習して「何にもならない」ことが素晴らしいという。

 そうなのよ、音楽をやっているものは初めからこの感覚がきたわっているが、きたわりすぎて「決して仕事にすらしない人」が半分以上いる。少なくとも私の大学の同期なんかそうだ。いやマミーのメンバーが言ってたが、50歳でまだ歌ってるのは大学の同期で三人だというのだ。

 音楽なんかほんの一部の天才だけが演奏で食えるわけだが、でも教えるとかそういういろいろはあるだろうが、音楽を一回でも志したものならその過程でどれだけ傷ついてるだろう?自分よりうまい人など星の数のようにいるのですからね。

 何にもならない努力。

でも生きてるもそんなもんじゃないの。

しかしこういう無用なことを、役に立たないことを永遠と繰り返していると人間の品格は上がるよ。少なくとも資本主義のロジックには組み入れられない。資本主義は戦力外の人とプロダクツを産む過程におけるゴミ等公害問題が必ずついてまわるからくりを持つ主義である。再生化を試みるとか雀の涙のようなこともやった方がいいが、戦力外人間を70まで働かせようとか、涙の出るようなこともやった方がいいとは思うが。

もうその枠組みを全く捨ててしまうというのはどうだろう?

無用な老人は無用な音楽の練習を身をすり減らしてやるというのが、一つの提案である。練習が忙しくてステイホームばかりだし、思われているほどお金はかからない。お金がかかるのはヴァイオリンでプロを目指す子供とかである。

 80代で毎年リサイタルを開いてる生徒がいるが、決して私は褒めないが、実は毎年上手くなっているのであるが。

昔、呉智英が、老人になって福祉の対象になるのはたまらん、と言ってたが、特に老人になったと言うだけで「童謡・唱歌」を歌わされたりするのは嫌だ、俺は老人になっても、メシアンの「トゥランガリラ交響曲」が聞きたいと言ってた。そういう偏屈老人のうたの会こそ開いてみたいが。個人で習った方がいいかも。足腰頭が弱ると「ホーム」に入れられてやさしい介護士さんに「おじいちゃん、よく出来たねー」「ゆっくりでいいんだよー」なんて幼児に言うようにゆっくり耳元で言われたりして屈辱的。

 私はまだピアノもうたも習いに行っているが、先生たちは決して一言も褒めてはくれない。幸いである。

 

 

 

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