カナシイほど声の響かない人というのはいる。たくさんいる。
別に静かに暮らすに声など響かなくてよいし、この国では響かない人の方がいろいろ特典ががありそうな気配である。
いやいや、しかしグローバル化なんでしょ?やはり誰も彼も「自分の意見をきちんと主張しましょう」ということになってきている昨今、声は響いた方がいいことになってきましたか?
私は主張は強いが、主張すると必ず職員室に親が呼ばれたしするので(どうして教員って狭量)静かにグレてた。だから声は響かないのである。合唱など一番嫌いな音楽のジャンルであり、大体みんなで何かするのが苦手。集団行動が苦手。
東京では川を一個越えるごとに「集団行動」が強化されるのか、川向こうで合唱教えてた時、本番で「どっちの足から出るんですか?」と聞かれて困惑した。その足で北朝鮮でもやっていけると思ったが、こういう人々にとって「自由」とは結構辛いことなのかもしれない。
マスクを取るのは10年かかるかもしれない。マスクをポケットに入れたり出したりするのは汚いことだと思うんだが、もうそういうことではない。記号である。皆から外れていないという。
もうどっから見ても外れまくってる「超個性的な」人物ししろーと暮らしてるが、この人は意外にも「人から何か言われる」のを異様に気にする人なのである。
音の仕事をしているわけだが、音が漏れてないかとか(漏れまくりだよ、桜蔭学園(隣)に通う生徒が、今日の2時の生徒さんうまかったですねーなどというし、ここの2ちゃんねるには授業中謎のオペラが聞こえてくる、と書いてある。謎じゃねえよ)水漏れも気になって、庭の葉っぱが詰まらないかいつも気にしている。着眼点が異様だが、要するに「人に何か言われるのが怖い」お上に年貢米献上してた頃からのDNAだろう。
家の中で南北問題。
しかしすっかり主夫の座に収まって、適当に暮らしている。私は自分が主婦だった頃の「間違え」を自己批判し、その後「正しく」生きようと頑張ってきたつもりだが。主夫を養えるようになったということは、真に「依存」をやめて自立した、ということなのかもしれない。しかしワキが甘すぎたな、ハハ。
声は響くようになる。それはやり方だ。
しかし先週レッスンに行って、やはり師匠の声の響きに圧倒され、自分の声のしょぼさにしばらく声も出なかったが、そう、この響きを得たいよなあ。もうテクニックというより「生き方」な気もするが。
人は話し方が90%、とかなんとかいう本が売れているようだが、人は声が90%とかいうでっちあげ本いくらでも書けるので、ぜひ依頼ください。
でもだいたい息の吸い方や話し声、響きなどはもうその人に張り付いてどうにもできない「命式」のようなものだと思うことがある。それをこじ開ける。隙間を見つけて痛くないように気を遣いながら、変えることはできる。それは私の仕事です。そして声が変わると、張り付いてたものがどんどん溶解するのである。でもそれは日本国民からマスクをひっぺがすくらいには難しいけど。
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ピアノの会の直前に「ばね指」になった。小池整体に行ったらそれは「腱鞘炎」だそうだ。どうしてこうなるかな。ちょっと頑張りすぎた。あと3日なのに、練習中止。まあいいや、ピアノだと「本業」じゃない意識からかそんなに焦らない。
マンション建て替えの憂き目だが、実際の価格表なども出て、こうなるとみんな賛成ばかりできないのでは?私は丹精してきた庭木の行く先を考えなくてはならない。まだ反対できるようなので断固反対であるが。土建屋は建てないと金にならんので必死。反対住民を「後ろ向き」とかいうのはやめてよ、前向きな土建屋の皆さん。
神の手に任せて欲望の餌食になる、を阻止するのは「文化」だと信じる。芸術とはこれとこれならこっちの方が絶対いい、という感覚を鍛えることだが、それは「人それぞれの感じ方」などではない、と主張できる知見だ。タワマンなど非文化的である。ダサい。猿とバカが高いところに登るのである。低層マンションを守ってほしい。高層マンションなど建てれば、猿とバカが入居するということですよ。うちは二軒もあるので、圧倒的に「有利」だが、ダサいからやだ、以上である。