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待っている間に

 ソフトランディングさせようと、ここ一週間は四時には風呂にいけるような体制にしている。楽しみは風呂屋とビールしかないのかワレ、ではあるが、今週は正月に貯めたパワーをレッスンに全開させてるので、福袋レッスンである。ココロはお値段以上です。

インフォ・・・・・・・
先週決まった3月28日(土)の公開レッスン枠6人は2、3日でいっぱいになってしまいました。見学者(入場無料)・キャンセル待ち者募集です。
日時 3月28日(土)1時から5時
場所 文京区男女平等センターA研修室
内容 公開でレッスンをします。その後発表の会
講師 島川高正(テノール)杉崎竜二(バリトン)宝槻(ソプラノ)中島裕子(ピアニスト)

今年はその後発表会5月31日(日)(文京シビック小ホール1時から夜9時・これは「キャンセル待ちの人のための発表会」も同日7時からという構成です) 
私リサイタル 6月4日(木)(文京シビック小ホール夜7時から予定)
などが上半期予定。これはマミーと違い、誰が聞いても面白くないような衒学的な近代歌曲を集めてやろうか、と思ってます。よくみんながやっているような「自分勝手でサービス精神のかけらもないプログラム」でしかし、どこまで良いことが出来るか、というような・・。
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 今週センター試験で、うちの教室にも該当する生徒がいるが、東大では毎年一年生にセンター試験を受けさせ「どれだけ点数が落ちたか被験者バイト募集」があるが、そうか「どれだけ落ちたか」なんだ。もう二年生以降はそのバイトはない。どれだけが「どんだけ~」になってるからだろう。

 そのセンター試験日は必ず文京区の合唱際にかさなっており、私の指導する金曜コーラスもコール・ドルチェ文京も参加しますが、いっつも我らの誰かがセンターに該当する子どもを抱えているにも関わらず、それを理由に欠席するものはいないが、そう、朝送り出したらもうあとはうたでもうたっているしかないのである。

 ああ、おかあさんというものは、いや結婚したら「女」というものは家でいっつも何かを「待って」いなくてはならない。それは家族を待っているだけではない。その「何か」がもう半ばよく分からなくなっているのだが。待っている間にうたくらいうたったってバチは当たらないと思う。

 レース編みをしたり、誰もいらないポーチを作ったり、私のように拭き掃除が趣味だったり(埃で人は死なないが、趣味だから)お料理に凝ってみたり、江戸学とか使う当てのない語学勉強等「差し障りのない」お勉強、そういった「偽装労働」しているのが関の山で、主婦だったら、それでレース編みの専門家になったり、料理研究家になったり、女性労働問題の研究者になったり通訳になったりしてはいけない

 「待つ」という純粋な行為を継続しにくくするから。その行為に「兼業」はない、と私は考える。


 何かを待っていることを「主婦」というのだ。それをやめられない性質を「主婦」というのだ。逆に言えばそれが出来れば後何も出来なくて良いし、賢い主婦は知っているが、「出来ない方がいい」

  待ってなんかいないよー、というフリはやめようと思う。待っている人というのはすべての人間にとって「安らぎ」であり「負担」である、「より所であり」であり「債務」である。

 「主婦は仕事か」論議がいつだってあるが、そろそろばかばかしいのでやめた方がいい。要らないと言われて長いが、主婦のいない国も時代もないので、それは要るに違いない。

ジェンダー論のとんちんかん、労働を「シェアー」することではない(20年やってていうが、電化された現代において家事など、朝飯の前に出来るようなことであるうえに、朝飯さえ作れるさ、はは)

 主婦業とは「待つ事」なのであり、待っている間に賃労働するかどうかすら関係ないと私は思う。それをなんで男はやらないか、という問題こそ問題だが、やらないんだからやらないんである。そこは当然生殖の問題と関わっているんだろうし、この「待ってればいいという座」を獲得するためにヒトの♀は児頭を拡大させ、産める限界にした上に一年間は哺乳に専念、つまり「子育て」を長引かせた説がある。「狩猟」より「待機」のほうが安全だからだろう。物事に加害も被害もないから「不平不満」を言わないように。

 主婦は仕事ではない。金銭のやりとりのないものを仕事とは呼ばない。それに主婦のやっている「偽装」労働はやってもやらなくても良く、任意であり、きちんとやっていると思いこむのは勝手だが、それはまだまだ足りないと思っているのと比較検討されている訳ではないのできわめて恣意的である。「仕事」というものはいっくらたるい感じに見えている仕事でも一応成果は求められるのではないだろうか

 仕事ではない。生き方である。
「待つ」という抽象的なことをしている人、である。

 「待つ人」をひとは贅沢にも必ず必要とする上に、こういう人を社会的にあんまり大事にしない上にあまり尊敬もしない、主婦側もそれを「取り上げられたくない」し、で今に至り、しかし同じ待ってるなら「うまい飯」食べて待ってたい、というのは人情だが、ここまで来て思うが、何食べたって報われやしない。

 いくら平等社会が実現しようとも「待ってる業」に賃金がつくようにも思われない。それは無償の属性だから

 わたしは25で主婦というものになったが、なったその日からその欺瞞に気がついたねー。そしてこのやるせない感情の正体を掴みたいと思っていたが、離婚届を出してみたり、扶養というものからはずれてみたり、うたを今更がんばってみたり、「主人」の倍も働いてみたりしたが、つまりすべての「条件」を世間で言われるところの「主婦」の属性からはずしてみても

 私は主婦でした。待っているからです。つまり「待っている事」だけが残ったんですね。


 コール・ドルチェ文京、という奇跡を見てほしいと私は思う。
私たちは主婦だが、うたうことにしたんですよ。「待ってる間」に。そうしたらこんなに力があったんだという、たった15人ですよ(団員募集・見学歓迎・Join us)また、そこのところを聞いて欲しいのです。


文京区合唱際
日時 1月18日(日)我らが出るのは2部2時からの部です
場所 文京シビック大ホール
1)金曜コーラス(これも凄い。老人なんて呼んでくれるな、ゴスペルうたう)4時頃出番
2)コール・ドルチェ文京は「そのひとがうたうとき」をうたいます
もう涙涙の傑作4時30分頃出番
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 「待つ」のをやめたいなら出て行くしかない
「人形の家」のノラみたいにね。でもそれは無責任ではないか?
自分の「解放」のためにそんなことしたらいけない。それに思うが、そんなに「解放」っていいの?本当の解放なんて死ぬくらいしか考えつかないけど。

 もう待つものを持たない、完了形としての私の母は、じっと死を待っているというが、そうか、結局は主婦業の終わりとはそういうことなのかもしれない。

 「誰か」を待つのをやめたら「死」を待つことになる。

 そう、もっと突き詰めるならさ、それを誤魔化したくて私は「誰か」を待つ事にしたんだ、と気がつくが。正当化するためにいろいろな嘘もつくさ(たとえば愛、みたいなさ)でも今日成人を迎える君たち、生殖しないことには何も始まらないし、人生は嘘も欺瞞もあり。それを異物混入だ、とか騒がなくなったら「成人」。

 まんじりともしないで待っていようではないか。うろうろしないでよろしいわ、「待つ」という行為はさ、祈りであり、呪術であり、

 そこ、きっと神とつながっていると思うから。

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