アベノミクス効果はあっただろうか、みなさん。久々なうえにいきなりだが
へんな言葉にすぐ引っかからないように。お父ちゃんの給料が1、2万上がったとして、それで何を買っただろうか?大きなお世話だが。子等にアメでも買ったか?それはその子等に「有益」だったろうか?
もうそろそろ「アメ」の価値について考える成熟した日本になろう、ちゃちゃちゃ・・ちゃ・・
一部の勝ち組だけがいい思いしているという嫉妬は誰でも持っているが、
自分の貧乏を政治のせいにしちゃいけない、あなたが「不幸」なのは誰のせいでもない、なりたいものに人はなれるように人生は設計されているので、今の自分は原因であり結果であると 最近しみじみそう思うが。
政治は夜警であってほしい、ただ朝起きたらスイッチを入れ、終わったら火の元を確認してスイッチを切るだけの。
75歳の老人が「老後」が不安であるとテレビで述べていたが、老後とはいくつから?であるなら人はいつでも「不安」であるのだ。
多分生きてるから不安なんで、生きていることは一番精神と健康に悪い。
生きているとは不安だが、その不安を一番解消というよりマヒさせるのは、スピードだろう
生きていることを越えるほどのスピードは死んでるのに近い相対性理論である、こういう言動は息子に「はあー?」と言われるだけだが、いいんだよ、孤独とは引き合う万有引力である、と言った詩人があるではないか。
頭と体、あるいはどっちも悪くなるとスピードがないので、人は不安になる。老後の不安とはそこだが、若くてもそこダメな人はたくさんいる
そんな人の「不安」を危ない葉っぱで解消、みたいな事をしていると先々良くない、と歴史は教えるが、「歴史」は国民の「現不安」には勝てない。
頭か体かどっちかかどっちもかが悪い為政者が不安を煽り加速させるが、先々に戦争が起こるはず、とかいう「予感」で軍備を拡張してみたり、恐れ多くも憲法を改正したり、原発全部止めて何も困らないのに、先々困る、と言ってみたり・・
「成長」してなきゃ不安病。
「経済」成長とは何?それは企業成長である。企業というものは際限なく利益を生まなくてはならない宿命だが、それはとどのつまりは「破滅」への緩やかな、あるいは急速な道のりであり(一つの方向、右斜め上に進むばかりの事物などあり得ないし、そんなものはどこかで止まるか消滅するかであるから。情緒的に云っているわけではない)人はそれにつきあうことはない。
資本主義社会のなれの果てを人類はまだ見ていないのである。
つまり、このシステムが当座のものとしても、至上に考えたりするのはナンセンスだと思うのである。それはかつて共産主義こそが人類救済への唯一の道だと思われていたように、である。
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2週間で本番3回、久々に全9曲もうたってみました。今年は発声を変えた一年で、ある程度の苦労の成果はあったと思うが、声が変わったというより、耳が変わったと思う。
もう〆の会で今年うたい納め。今年は最後うたいます。来年はリサイタルします。教室は来年の5月には発表会、これはキャンセル待ちの人々も含め、すでに締め切り、ご期待ください。
その前に(3月予定)公開レッスンやりますが、これ公募しますね
今のところ五枠あります。
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いろいろ言いながら、わたしは「うた」のことしか考えてこなかった20年だった。そのほかのことは全部「2番目以降」だったなあ。だから「ししろーの悪行」にも耐えられたのだが・・
生活なんかどうでもいいのである
「そういう一個」
それを持っちゃった人はみんなこんなだろう。政治家もそうだろうよ、国民は何百億もかけて、この人たちのステージを作らなきゃならないが、立候補しないような人に一番やって欲しいが、政治家は。
子どもの幼稚園の頃のお母さん2人が寒い中、「学会活動」ご苦労様です。電話勧誘もあるけど、だいたい選挙って頼まれて入れたりするものじゃないでしょ。
でも彼女たちの「その一個」になってるからねそこは。
風邪もひかないんだろうが、わたしも「うた宗教」のおかげで風邪もひきませんが、
みつけっちゃったんだね
「ひとの「その一個」を笑うな」だね。それが頭わるーでもダサー、でも。
じゃ、あんたのうたってどうよ?とか言われたくないもんね。
ししろーもその一個を見つけちゃったらしく、「活動」が忙しく帰ってこなくなっちゃったようで。たまに見かけるけど。もうそれを糾弾したりするのはやめよう。「脱会」したってここには戻って来ないだろう。
わたしはそこを「うまく」やりたかったわけではないから。
私はとっくに一人で喰えるようになってしまったし。
でもなんか理想があったんだよね、イズムと言ってもいいのかもしれない。なんだろうね。そういうこと他人にたいして考える者を「独裁者」というのかもしれない。イズムが違うからと言って糾弾しない、を家でどこまでやれるのかやれないのか・・
家は浅間山荘じゃないからね。
どうぞ、どこへでも。でも私はいつまでもここでバリケードを張り、「断固反対」(何に?)を言い続けていることとするか。その一個を守り、「それ」とっくに無い?
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でも
私にはうたがあるから。この一個のおかげでなんかは失ったんだよ
いや、1個が「ある」ことと9個ない事は「一個」であるに違いは無い。