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ココロの時代

 ココロの時代だよなあ。

ゲームやりたいココロとか、ピアノ弾きたくないココロを大事にしてくれちゃうから、子どものピアノはほんと教えにくいが、そこ親がビシッと言わないのは、ココロの時代だからね。どこの教室でも、学校でも今どき子どもに何か教えるのは至難の業である。

 親が子どものサボりココロとかだらけココロとかにも優しく接しているようです。躾も虐待だという感覚なのか、躾はほぼされていない無加工な状態でやってくが、そうするとサルのようなものだから、餌で釣るしかないが、ピアノの餌は、ピアノが上手くなったら素敵だ、と思うこと以外にないから、そういう感性もない場合は、お手上げである。

 好きだったらやる、とかいう自発ココロに期待しているのかもしれないが、それは一部の天才しか持ってないと思う。天才は初めから上手いのである。嘘だと思うなら小林愛美さんの幼稚園時代の演奏とか見てみるといいと思う。

 才能のない「フツウ」の人間に大事なのはココロを大事にしないで修行することである。一日何分練習するとか、何回練習するとか。親や先生が怖いから練習するのである、フツウ。

 もちろん才能のひとかけらもない私は、母親が練習しないと竹の裁縫用の物差しで叩きのめすので練習してきたが、割とこの人は間歇的で、気分のいい日は怒らないので(つまりココロの人なので)そのココロを読むことが上手くなった私である。でもうっかりしてると急に激怒するので、慢心しないようにしながらサボることが上達したのである。

 もう誰も怒りも叩きもしないのに練習を欠かさない私。最近だよね、少しはピアノもうたもマシな感じになったのは。少しは自分のやりたいような表現ができるというような、いや、でも本日自分のレッスンだったんだが(うたの方)何にもわかってないことがわかるばかりであったが。

 表現、ってココロを発露させることだが(すごく単純に言って)それをこういうクラシックの形式にはめてやるというのはとてつもなく難しいことなのだ。才能があってもましてなくても。

 話題の小室眞子さんが、「ココロを守るために」という発言をしていて、なるほど、と思ったのであるが、もう天皇家ですらココロの時代なら、我ら烏合の衆はグダグダだわな。ピアノ来ていきなり床に寝転ぶ子どもなど見慣れた光景だが、寝転ぶココロを守るためにお母さんは何にも言わないからね。これから「形」を学ぶというのに、そこから言わにゃならん。

 天皇制は形である。国家も形である、家も形である。そういうのはけしからん、となった戦後民主主義の行き着くところはもちろんココロなんだろう。

 悪いとかいいとかではなく、史的必然である。

赤塚不二夫という天才の描いたキャラクターに「ココロの親分」というのがいましたね。何でも語尾にココロをつけるのだが、すぐ感動するし怒るし、ココロで生きているのであった。これからはココロの親分ばかりになるんだろうよ。形式に守られない剥き出しのココロはすぐ故障しそうだが。

 ココロなんか窒息させてしまえ、とジュール・ルナールは「にんじん」のお父さんに語らせているが、それは過酷な息子の人生に対する処世術であり、励ましであったと私は思う。

ココロには形式というマスクをしてほしいと思う。その中で窒息しないようにうまく息を吸えるようになるのが処世術というものである。

 

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