あまりに暑い。
今日は休日なのだが、小池整体に10時に行って、その後キヨシと石井に寄っているものを買ったらもう絶対外に出ない。
しかしそんな時間から飲むとダラダラしちゃうので、練習、をする。あまりに追求心のない練習なのですぐ終わってしまうから、あとはハラミちゃんごっこをする。
知ってますかハラミちゃん。
そうか、ポップスの適当伴奏というのは私の得意分野だが、それに旋律を付けてさらにそれを「うたう」彼女のピアノは歌などなくても十分にピアノがうたっているのですが、そういうのありなんだな。こういう人が出てくるというのが、戦後三種の神器の後の後くらいに「ピアノ」で、やたらピアノばかり普及したこの変な国のその後の効用なのですね。
芸術って、嘘つけ、芸だし、それは帽子ひっくり返して金が取れるものじゃなければいけないよね。それあんたできるかって?すみません、精進します。
これ12月開催のなんでもやっていいピアノフォルテの会でやろう!!
あとはバッハのイタリアンコンチェルトの三楽章と、ビルエヴァンスをやるんだが。本当はそれにシューマンのクライスレリアーナの1番、5番、と思ってたんだが、ピアノの先生が「うーん」と難色。でももうあと20年くらいで死んじゃうんだから、やはりシューマンをもう何曲かやりたいのだが。アベック変奏曲というのをそれこそ20代でやってるが、あとは子供の情景くらいだしさ。
でもそう言われてみればシューマンって「変」なんで、難しさが尋常じゃないし、とても今の私の実力ではなんともなあ。
いいや、そこ、そんな下手くそなシューマンなんか弾くより、ハラミちゃんの真似でもして、「お客様を感動」させる練習した方がいいのではないか?
エンターテイメントとしてクラシックの何かを成立させるなんて神の領域なんだからさ、ついつい象牙の塔に篭って高尚ごっこしてしまうクラシックではあるが、
「偉大な学問はこういうバカをも内包できる」チェーホフ「退屈な話」
のように偉大なクラシックという分野は才能なきものにも多大な恩恵を与えてはくれるのだが、まあ少しは聞いている人の身にもなって演奏しなくてはいけませんよね。イルカの輪くぐりの方が遥かに感動を呼ぶではないですか。
オリンピックとか。
選手っていい人ばかりだから、「皆さんに感度を与えたい」なんて言っちゃうけどさ、そうやってハラミちゃんだったりアスリートだったりがくれる「感動」を涼しいクーラーのもとで「消費」するってことに違和感。
そして「消費」には必ずそれに群がる「惣どと運ず」(オペラ「夕鶴」参照)がさ。
感動を与えることのできるある種の人から金を抜く人間から、それのおこぼれをそいつらから頂戴して涙する我々。またこんなところにもオペラ「夕鶴」は展開しているのであった。
才能あるごく少数の人々の技を多くの才なき惰民に「見えるように」「触れるように」「聞けるように」する作業をする見せ物師というのは遠慮しながら、怯えながら詫びながらやってほしいですよ。畏怖の念が足りない。
一線を退いたアスリートなどというのももう過去の産物、そこに神はいません。だが人生は続くのだから、何かそれを権威に変えたくなってしまうのも詮無いことだが、そこは年金でも早く手当して大人しくしていてもらえよ。なんのためにメダルがあるのよ?居間のサイドボードに飾って自慢するためでしょう。だめだよ出てきてウロウロしちゃ、バッハ、ただの不良外人だからね。
来週から「感動のお貰い」が続出。お蔵入りしてしまったパクリのエンブレム(覚えてますか?結構良かったと思うんだけど)を振って応援だ!