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鏡の中の自分

 声って面白いなあ、と人のうた聞いてて思うが、自分はどうなっているのかはもう絶対自分にはわからない。

わからないからうたは先生につくわけだが、その先生が言ったことが結構「絶対」になってしまうから声楽教師は本当最後まで勉強してなくてはならないし、いつも確信を持っていうけど同時に懐疑的でなくてはいけない・・。

先週発表会の合わせをやったんだが、男女平等センターがベルカントのために部屋を貸してくれなくなったので(上のURに住む人の苦情によるものだが)急遽自宅でやった。テノールの島川くんかバリトンの杉崎さんと2人体制で見ていったが、こういうの楽しいしこちらも勉強になった上でドグマに陥るのも防げる。

自分の声を自分で聞くって録音機によるものだろうが、結構びっくりするものだが。ただ、録音機の声が「本当の声」かというとどうかと思う。

自分の声って絶対自分で「聞けない」のよね。

でもそれは「自分」そのものがそういうものである。

自分を「自分」であると認識するのはごく小さい時言語によってだろうが、鏡を見て逆さに映る自分を自分と認識するということがあり(これを「鏡像段階」という ラカン)その鏡像に色々な人から言われるイメージを取り入れていき「自分」のイメージを作っているんだろうが、自己って他者の「決めつけ」と言っても近い。鏡という一見「公平」なようなアイテムも、人の言動等によって自己の「見え方」というのは偏っている。

自分のイメージは永遠に完成しない。自分探しは終わらないままThe endを迎えるに違いないが。

どのように他者に見られているか、ということは常に自分にとって大問題だけど、そのセルフイメージと「本物」を近づけることが「うた」にとっては常に問題になるよね。

というのは「声」というものは人とコミュニュケーション取るために主に使われているものだから、つまり社会化するためのメディアだから、その「社会」でどういう「役割」でどういう「振る舞い」をやはり他者から期待されてるかによって声は決まるのであり、「本当の自分の声」なんか出せる人はほとんどいないのである。

今から10年以上も前の話だが、2年以上教えている生徒が(女子。真面目な上にも真面目。必ず定期的にレッスンに来ていた。必ずきちっとさらっていたけど、体は固く、それは毎日会社の帰りには整体に行かないと翌日起きられないほど)突然レッスン中「狂った」(としか言えないようなことで)彼女が

「わからない」

と呟いたんだが、その声は今まで聞いたこともないような深く大きな声で、え、こういう声出せるならこの声でうたえばいいのにと思った。

その後「わからない」を3回繰り返し出てってしまったが、その後どうしたんだろう?その日特にレッスンで厳しいことを言ったとかそういうことで全然なく、レッスンは極めていつも通りだったと思う。もう少し深いところから声をだの息を吸ったところからうたえだの言ってきたと思うが、体が「聞けない」という決定的に頑固なところがあり、こういう感じで「拒絶」していて(でも表面は穏やかで友好的)な人を変えていくのは本当に難しく、もはや「言っていること」も「やっていること」も自分から遠く、「させられている身体」であり「やられちゃった身体」である人、という人は結構いるのである。

セルフイメージとしてはフツウで穏やかな人なんだろうな。

しかし「本当の自分」ってなんだろうなどという自分探しに誰もが失敗しているのだから思う存分失敗したらいいし、さっき言った通り、自分とは他者の反映でしかないのなら、そんなもの相手にすることもなく、鏡に映った自分を見てこれほどの器量よしがいるもんか、と感嘆してればいいし、自分のうたもこれほどのうたを放っておくなんて観客も聞く耳ないのね、と思ってればいいのだ。

あんなに丁寧な人で、レッスン簡単に休む人もいる中で、風邪で休むという時の丁重すぎるメール、毎度ピン札で郵便番号なしの封筒にきちんと謝礼は入っていたものだが、その日の謝礼は頂いていないが、何のメールも電話もその後なかった。狂った。なんかが外れたんだと思う。

自己は他者の「意向」であるなら、一生とは窮屈なものよね。

「狂う」前にもう少し「ましな手」を考える。

例えばあらゆる「気晴らし」、何からの?他者の評価からの逃走。

当教室は「気晴らし」のお手伝いをするものであるが、かなりやりこんでいて、そうなると「声楽」とは結構難しいものかもしれない(難しい人にとってさらに)でもそれでもやり続ける理由とは難しいことが気晴らしになっている例である。大変良いと思うが。何も箱根に一泊旅行して団子でも食べてほっこり温泉に浸かることなどに何の楽しみも見出せない人もいるのである。

気晴らしをさせてくれる場所をおおまかに行って「水商売」というが、うちは水も出さない水商売である。

言葉通りの水商売などというところは「チヤホヤ」してくれたりで自分のイメージを少し良い方に修正してくれるのかもしれず、そういう「他者」を金で買うということはベタにありだよね。

いい時計、いい車、いい家、そういうのも他者の評価を金で買う行動だと思うが、そんなこと言ったら全部そうだし、大きな犬(チビな男が飼ってることが多い)まではいいとして、優秀なこども、まで行くと、人間でやるのはやめようという気にはなる。文京区は国立系の小学校が多くあるが、文京区に住んで子供を持ったら、そういうところに子どもを入れてそこの制服着た子を連れて歩くのがステイタスだと思っている人は多いらしい。くだらないと思うが(文京区に住んでいてその手の学校のくじ引きに行かなかったのは本当うちだけかもしれない)それは他人の依拠している自己顕示の方法は常に馬鹿にしたくなるという私の性質によるものだろうし、実際「くだらない」のである。

自己顕示欲(詳しく言えば自己を自分の気にいるように評価、チヤホヤしてくれる他者を欲する気持ち)は誰でもあるし、それを提供することは非常に儲かるわけだが、逆に言えばお金がかかるわけだが、それの極はギャンブルなんだろう。もう自分が一瞬で何倍にもなった気持ちになるのかもしれない。

自己顕示欲、それ故にみなおかしくなっちゃうならそういうの隠して生きていくか元々希薄ならいいのか、あるいはそれを「修行」により滅却させるとか(極めて仏教的)いやいや

例えばさ「他者の評価」を相手にするのではなく、自分自身を変えられないか。絶対的な自己というか。それをどこまでも追求することに「依存」したいと思う。

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ピアノのレッスンで亀戸にいるが、メンデルスゾーンの「ロンド・カプリチオーゾ」は18歳の時の作品だそうで、みなぎるような自己顕示欲に満ちているので、ここ数日これさらっていて指が腱鞘炎気味なのである。これ持って音楽界に殴り込みのような作品なのである。うまい「手抜き」方法を教えてもらう。

4月1日か。何となくヒヤッとする。新しい学校、新しい職場、新しいクラス、新しい部署、「今までの足場」をさらわれる月、いやいや絶対的自己を鍛える月に。

ネコって鏡に映った自分を認識できないようであるが、自分を何で認知しているんだろう。名前呼ぶと振り返るが。振り返りたくない時は振り返らないから、関わりたくない時は他者を排除できるくらいには自己中心的なんだろう。

 

 

 

 

 

 

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