ピアノフォルテの会も終わり、そして大掃除も終わり、こうやって自転車で都内をぶらぶら、三越でも行って美味い惣菜でも買って帰るか、なところ。
2月の頭にはイタリアに行くので、新しい曲もみようかなと思っているのだが。今日明日くらいは静かに暮らそう。そうはいっても朝4時半に起きる習慣がそうそう変わるものでもなく、猫たちの腹時計は正確で、6時15分には催促してくるし、そこは変わらずまずは起きて、その後正月仕様の番組があまりにつまらないので1時間くらい寝た。本番に間に合わないからトレーナーでとりあえず舞台に出なくてはならない、という変な夢を見てうなされて起きた。
昨日YouTubeで違法アップロードな山田太一の「早春スケッチブック」を見て、これが民放で普通に放送されていた幸せな時代を想った。
主役の山崎努(もう俳優で一番好きなのはこの人。2番が豊川悦司)が鶴見慎吾(と言ってもまだ高校生の役)に説教する、というだけのドラマだが、「人間今日の天気やらどこ行ったやら何食ったやら給料が少し上がっただの、電車が空いててラッキーだの、そんなことのために生きてるくだらない人間になるな!」などとアジる。もうそれは舞台でシェイクスピア劇でもやっているように見える。
芸術と市民性。
いつだってみんなこのテーマよ。正月番組に出てくる「ばか」のような市民に対するもやもやが芸術家の案外大きなテーマになっているが。
まあ放っておいていいではないか「ばか」は。それらにいつもイライラしたりすることもないと思うが、もうそういうバカに対する罵詈雑言だけで出来ている本というものがいっぱいあり、自称「バカじゃない」と想っているが、バカじゃない割にバカより幸せになれないと想っている不器用な者たちは必ず読書家。でも文化の原動力とはそんなものかもしれないよ。
チェーホフ「退屈な話」トーマスマン「トニオ・クレーゲル」ドスト「地下室の手記」
もう面白いだけの本なので、ぜひ現生で報われないと想っている不器用で転びやすいあなた、お読みになって。私は音楽と読書が好きでしたが、音楽の方を仕事にしました。好きを仕事にできるとは幸せな人生ですが、音楽も一番熱狂したのはロックです。
「商品として成立する音楽」のレベルでやりたいと想っているのだが、それはクラシックでは「ムリ!」でしかなく、もちろん他の音楽のジャンルでもムリ!だが、「大きな芸術は必ず食客を抱えている」(チェーホフ「退屈な話」)という通り私のようなものにまで日々の糧を与え給う、ありがたいことです。
岩下志麻な元奥さんは鶴見慎吾(は努の子)を今の旦那(それが河原崎長一郎。なんと適任な信用金庫の課長さんといった役柄)と育てて(再婚して)いるんだが
志麻な奥さん「まあこの子もどこかの大学に入ってそのうちは会社に入って、そんなことになるんでしょうが」に対して「そんな小さい人生をいいと思うな!もっと人間というのは心から愛したり、憎んだり、尊厳のある仕事をしたりできるんだ!」と山崎努が怒るんだが。
いやいや努さん、会社に行きながら「声楽」を学ぶ、なんてこともありですよ。真剣にやればプロみたいにうまくなる人はいますぜ。うまくなるかどうかより、これに真剣に取り組むこと自体、市民性からの脱出です。大体本当の人生VS薄っぺらな消費生活、のような二項対立思考は20世紀のものでっせ。「小市民的な生活をしながら芸術の月桂樹より一葉も摘むことはできない」(マン「トニオクレーゲル」)とはもう20世紀の考え方。対立項を立て自分を優位に持っていこうとは姑息な。
「自分がただのピンではないということが言いたいがためにとんでもないことをしでかす」(ドスト「地下室」)アルコール、水商売、賭け事全般も市民性からの「脱出」と言ってしまえばそうだが、これらと「市民性」をちゃんと行き来できないで落ちてしまう人もいるよね。声楽でもやればいいのに。大事なのは努か長一郎かじゃなくて行き来できることだ。
「有名店」のケーキをネットで注文して崩れてたと言って文句を言うような「市民」をせせら笑っていいと思うが、もうマジでキレて弁償してくれと言ってたりして怖い。こういう「市民」を相手にすると怖い、を老舗は知ったと思うが、手を引いたりせず
教育して叱ってくれ(「群青日和」椎名林檎)
努「食い物をそれもなま物をネットで注文して、崩れていたと文句を言う。金を払えば何でも手に入るなどと思ってるんじゃない!」ケーキを投げつける。このドラマは投げてるシーンが沢山。
文化とは教育ではないか。腫れ物みたいにするとよくないと思うよ。老舗が威張り腐っててもダメだと思うが、頭なんか下げず毅然としていて欲しかった。
年末の東京。それこそこれからそれらの老舗界隈に。来年も地道に勉強して少しでも良いうたをうたえますように、みなさん良いお年をお迎えください。