しかし暑い。ちょっと今までに経験したことのない暑さではないか。
家でクーラー効かせてうたっているかピアノ弾いているのがいい。
絶対死ぬまで続ける「ピアノフォルテの会」だが、今年2回目は12月です。バッハ「フランス組曲6番」とショパンの子犬のワルツなどというびっくりするような有名なものを予定してるが、近現代何弾こうと探していて、プーランクというのはどうだろうと思い、色々楽譜を集め、CDを買って(ついヤマハに行こうと思うが、そうかこういう時こそAmazonがあるのか。申し訳ないほどすぐ来た)かなり私好みの音なのだが、それほど難しくなくさらに良い。フルートの曲でいくつか知ってるように思い娘に聞いたら今やってるというから、今度お友達のりっちゃん(のだめと呼ばれてた娘の高校の同級生だが、なんでも弾ける。毎週来てるが、なかなか天才)の伴奏でやってもらうことに。ピアノってオムツが外れて1年くらいから始めるので、自分がうまくてもよくわかってないというような人がたまにいる。りっちゃんはそんな人だが、昔高校時代にドビュッシーの金魚をサラッと弾いていたからすごく褒めたら、そうすか?くらいな感じだった。今は会社に勤めて子育てしてる。もういいのかピアノは。私が練習してるというのに。
こういうふうに弾けないとピアノなんか面白くもなんともないが、そんなこと言うとどんな趣味だって成り立たんではないか。大人になって憧れのヴァイオリンとかちょっと近所迷惑かもしれないが、うたは?というとそんなに声が出なけりゃ聞こえないし、聞こえて下手というのもあんまりないかも、いや、あるか。
昨日は声楽のコンクールの審査員だったのだが、結構「趣味」でやっているというコーナーの人に上手い人がいる。声楽でプロかアマかをいうのはすごく難しい。演奏で食べてる、どこかの音楽事務所に入って演奏が商業ベースに乗るというのをプロというなら日本に10人いるのかいないのかの世界だと思う。もちろん私はアマです。
そのほか「音大を出た」などというレベルは毎年各音大も100人くらい卒業生を輩出しているので、いーっぱいいる。もうまちまちな実力。卒業後全く何もしてない人もいる。そう言えば「音符が読めた」ことに気がつき老後合唱やったりする人もいるけど、やはり音程は確かだったり音符読めたりするので助かります。ぜひ当教室の合唱の部などへおいでください。
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土建屋:イタリア、お帰りなさい。
先生:ありがとうございます。
土建屋:しかし先生もそのお歳になってまだ留学しようなどというのは立派というか・・。
先生:諦めが悪いというか、ということだと思いますが、今回行った8人、2人が若い人(結婚してないし子供もいない)であとほぼ60代です。つまりM字型就労などと言われますが、女はなんだってM字型です。子供がある程度片付かないと何にもできないのです。くっそー子供に大事な時間を食われちまった、あとは自分がガタが来るまでだぞー!!という危機感。このメンバーで夜な夜なミラノの酒場で飲み倒しておったのです。
土建屋:留学なんでしたっけ?おうたのお勉強に?優雅だな。
先生:私の主催するものはなぜかその優雅な感じにならないのは主催の性格ゆえだと思いますが、たった5日で勉強しつくそう!という貪欲は覇気のない若者に煎じて飲ます、という言い方も年寄りくさいですが。
土建屋:老後は長いですからね、60代くらいで元気なのは当たり前ですかね、この頃では。
先生:死ぬまでピンピンがもちろんいいですが、その原資は悩むことがある、というのがあると思うんです。悩むは生きる活力です。悩みは高尚な方がいいようにも思うけど、明日のご飯に悩むというような強力な悩みは全てを帳消しにしてくれます。そこらへんがクリアになると次のこと、まあたとえば家族のことなどでしょうか?しかしそのずっと先に「発声のお悩み」などはあるんですが、それにしても立派な紳士が喉を詰めてシューベルトのリートを歌う・・仕事や家族もオールオッケーな上にこのうたかあ、という感慨があります。お父さんは家にいるといろいろうるさいから部屋に閉じこもってうたっててくれた方がいいに決まってるけど、もう少しこう・・。とてもうまいテノールなんかもいましたが、うたって人のセンスが表出してしまうジャンルなので、こんなうまいアルフレードはちょっと部屋に閉じこもって練習ばかりはしてないだろうなあ、と思ってしまいます。
土建屋:そうなんですか、私なんか「真面目」なうたしかうたえないんだろうな。カラオケもあまり上手くないと思うし、なんか恥ずかしいですうたは。ある時期はカラオケは飲みにゅけーションの一環で、行かないと角が立つというか。ソロでクラシックのうたを歌うなんて卒倒しそうです。
先生:ちなみに何をレパートリーに?
土建屋:さだまさしです。
先生:私たち世代は「過渡期」と言えるのです。60年代の高度成長時代はまさに日本の「近代」の完成であったと同時に崩壊の開始でもあった、「家族と女性に関していうと、「結婚したら主婦」の性的役割分担が成立した途端、その「主婦の座」は足元から掘り崩され始めていた。それは「主婦労働者」の誕生である」上野千鶴子『家父長制と資本制』つまり私たちそこから20年たった頃に再生産労働(家事育児を指す)も当たり前に果たし、それは早々に切り上げ、あとは生産労働(普通に労働のこと)に駆り出され、うちの夫は稼ぎますから私、家で遊んでてもよろしいんですよ、おーほほほ、な奥様も、子供が10人もいるわけではない&長生きということで、明日のご飯に困らなくても、ローンに悩まされなくても、そうすると一個進化した「生きる意味」などに悩まされなければならず、その悩みは抽象的で解決も見出しにくく、ついその少数の子供に「やりがい」を向けることになったりするが(矛先が家族に向くことは多い)そうそう期待に応えるために奴らも生きてるわけではない。
つまり、人は常に何かに取り憑かれていたいし、落ち着いていたくないし、悩んでいたいし、で、それが主婦の場合、そこあまりに松竹梅だろうが、夫の稼ぎに依存でき、だって再生産労働者だもん我々、でもそれは直ぐ終わっちまって、あと残された長い老後(子供が就学したら老後)をぶらぶら暮らせる人など滅多におらず、そうだ、やりがいやりがい、短大の英文科を出ただけの公園ママ友が「翻訳家」になりたがってたが、翻訳は今翻訳機がする。そのうち孫でもできたらまた公園で会おう!次の中学受験は失敗しない、と言ってた。うちも。今更金に困ってるわけでもないのに「日高屋」でバイトして1時間1020円もらって安い店長に嫌味言われるくらいなら、旦那にやりがい搾取されてたほうがマシよ、ふん。でも「やりがい」のようなものこそ人間の真の在りどころだし、それ求めて彷徨う、というのが「ポスト近代」の完成なのですよ、前の言いようだったらそれが完成した途端に崩壊が始まるんだろうけど、移民が大量に入ってきてやりがいどころか仕事がなくなる、とかね。
土建屋:長かったですね。さだまさしは無視されてしまいましたが、気にしてませんから先に行ってください。なんか先生もいつまでも「子どもなんか作っても子どもに頼るなんて滑稽だ」だけをテーマにしてた橋田壽賀子のようにずっと主婦無用論ばっかり言ってておかしいですが、そうすると主婦になりたかったのでは?と勘繰ってしまいます。離婚してるとかそういうことが心に重かったりでしょうか?
先生:私は母と結託して離婚してしまったんですが、本当にこれはありがたかったと母に感謝してます。その後その離婚相手と一緒に暮らしてるんですが、結婚のような形式はこの人と暮らしていくには不要だったし、相続の問題なんかがあるので、私にとっては婚姻関係はないほうがいい。もともと誰とどう暮らそうがどこに届ける必要も義務もないと思います。最後まで添い遂げようとかそんな覚悟もありません。めんどくさくなったら終わりです。
土建屋:いいなあ、自由で。
先生:そんないいと思ってないでしょ。
土建屋:そうですね。やはり人と違うことはあまりしたくないというか、当たり前の範疇で生きていないと安心できないというか。
先生:まあそれぞれで、人と違うことをとやかくいうのは暇だからだと思いますが、私は人のこととやかくいうのが好きですが、言われるのも好きです。もう中学の頃から変わってる人でした。少し反省しようとした時期もありましたが、それよりそれを利用しようとしたほうが良いことがわかった。いろいろ言われるのを楽しめると案外みんな味方になってくれます。「変な人」を利用して高校は水曜休み制を一人取り入れてました。宝槻は水曜休みだから、これは今日決めよう、というようにクラスメートにも浸透してましたが、担任に呼ばれて、水曜だけにすると同じ教科の単位が危ないので、水曜だけにしないように、などとアドヴァイスをいただいたりしました。
土建屋:なんか結構要領いいなあ。私はさだまさしの歌詞に出てくるような不器用な人たちが好きなんですよ。
先生:さだまさしは不器用ではないですけどね。私はうたに関しては本当にいつも一年生のような不器用な気持ちでやっています。特に教えるに関して毎度新しい感覚が持てる。特にイタリアから帰ってきてから楽しいばかりです。
土建屋:それはよかった。次回はいつ行くんですか?
先生:よくぞ聞いてくれました、来年は7月3日からを予定しています。1週間か2週間かはくる人数によってだな。講師、バルバラコスタ先生。YouTubeを聴いてみてください。聴講も可にしようと思ってます。