6月24日の発表会の合わせを近所のスタジオで行ったが、いやあ、声とはその人の履歴ですね。
息を腹式で吸うとかそんなことより、本当のこと言うとか、嘘つかないとか、そういうことの方がずっと大事な気がした。良い躾とか規範、他律、忖度、こういうものが声を殺していくんだろう。
鼻腔共鳴を得るというのはもっとプリミティブなアグレッシヴなアルデンテなヤンキーな事柄だと思う。
鼻腔共鳴は今なら換気のために窓を少し開けてレッスンしてるが、少なくともこのマンション中には聞こえないとダメだと思う。隣の桜蔭学園の2ちゃんねるに「授業中謎のオペラが聞こえてくる」と書かれているようだが、そのくらいには聞こえて正しい。
声が小さい人というのは、共鳴しない人ということだが、赤ちゃんの時泣けたならそれはできないことはないんだろうから、本人の意思、或いは周りの意思を汲み取った挙句の本人の選択なのです。声楽とはその共鳴の仕方を教えることだけど、それはその人の生き方などとも関わっているので一筋縄ではいかないのである。
だから面白いんだけどね、教えるのも習うのも。
喉をガシガシ鳴らしちゃうというのはよくやっちゃうことなのだが、それと鼻腔が共鳴している音の違いがわからない場合に難儀する。うたって、できるまではできないことがわからない、といった側面があるので、できたら分かる。
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スポーツは見るのもするのも嫌いなのでオリンピックなんか全くやって欲しくないが。飲食店じゃないから保証もないんだけど、少なくとも合唱は一年以上休んでいるし、イタリアツアーも来年2月は行けないだろうし、感染広がるような要因のものはやらないで欲しい。止めるって言えないのか。他律な国だよな。安全安心念仏唱えてブッ込むとか案外ヤンキー。それなら接種券なしでいいからブスブスワクチン打っちゃえばいいのに、そういうところは慎重。