ソプラノにとってGあたりの音(上のね)はやはり特殊なものなのだ、と最近気がついてどんな曲もそのGこそなにか作曲家が込めていることがこんなに多いのか。
そんな高い音ではないが、そこまでの音と体の感覚が全然変わるのがその音なのだ。それはマスケラと下とを強く結びつけるとか、言葉で言うのが難しいんだが、このGをどう扱うかでその人のうたが決まると言うか、その先のいわばソプラクートと言われる類の音に関して、それほど作曲者は「意味」を与えていない。
そのGがこう体を通った時の快感、この辺がうたをうたう喜びの一つだろうが。
今日は二期会で稽古。2月15日は「1日遅れのバレンタインデーコンサート」と言うものをやるが(シビック7時開演・2000円)
うまいテノールをフューチャーしているので、重唱もやってみるし、愛の讃歌もうたうが、前より下の声が出るので、低い版でやるけど、果たしてマイクなしで聞こえるか心配。
自転車を買い直した。
もう12年も乗ってたからね、いよいよ電動の電池がダメになり、電池満タンにしても男女平等センター(うちから2キロくらい)まで行くともう帰り電池が無くなっていた。
松坂屋に行ってみる。ラブホの横の急な坂が楽々登れたので感動した。
私が初めて自分のお金で買った高い買い物だった前の電動自転車は、ちょうど仕事を初めて2年くらいの、面白くて、でも不安もたくさんで、休みも取らないで働いていた頃の私の生活を支えてくれた。私の一生のうちの一番濃い部分を乗せて走っていた自転車だが、さよならだね。しょうがないよ電池が無くなっちゃったんだから。
今日買った自転車がよたる頃には私もいよいよおしまいかと言うと、そんなことにもならないのか昨今。今日来た生徒の84歳に体を大事にするように言われたが、この人去年より声出るようになってるし、怖い。
年寄りばっかり優遇してるから、すっかりシルバー民主主義になってしまい、少子化になったのだ、というような単純な発想で、こども作ると商品券くれたり、ベビーシッター券くれたりするようだが、そんなこととこどもの数はなんの関係もないがな。
食うや食わずの戦前にそれでも子沢山だったとかちょっと考えれば解ることだが。そういう時代の「こども」とは労働力だったかもしれないし、将来食わせてもらうなにか希望の元だったかもしれないし、多くの後進国で今でもそうであるように。
それは「こども」の発見。
何か可愛がったりの愛情の対象という意味ではペットだし、いい学歴ゲームみたいのに乗せるならブランド物だし、自分のできなかったことをやらせるなら、代償行為だし、倦怠夫婦のカスガイにするなら依存対象だし、もともとどの時代だってこどもとは大人の利のために生まれて来るわけだが、「新しいこども」の価値が錯綜しているのではないかな。故にそんな爆発的に増えたりもしないが、たらたらとは生まれるだろう。
大家族のテレビなんか見ると、とても目指したい感じじゃないしね。
素敵な大家族とかないのかな。親は高学歴高収入で、ゴミ屋敷みたいな田舎の家じゃなく、子供にへんちくりんなドキュン名前をつけなく、全員で弦楽八重奏ができるような家族とか。案外そういう「素敵な子沢山家族」のイメージとか大事なのかも。
昨日の話に続けるなら、もう「こども」すでに「記号」なのよ。
あるいは少子化を救いたいなら、ママに何かあげたらどうだろう。産んでいただく機械にご褒美を。
そう、今日知り合いのピアニストが子ども生まれたというので、松坂屋でシャネルの口紅送りました、自転車で行けるのでこれからは何でも松坂屋で買う。ついでに自分の夕飯に崎陽軒の焼売弁当なんて哀しいものをかってしまうが、これでビール飲むと電車乗ってどっか行った気分。私は鉄道好きです。